社会の隙間とトットちゃん


窓ぎわのトットちゃんを読んだ。映画が公開されて話題になっている、黒柳徹子が「問題児」として小学校を「退学」となり、その後に入ったトモエ学園での自由な日々を描いた作品だ。

特殊な学校であるために、公教育が全体に「トモエ学園」のようになることができない。けれども、少なくとも私は、公教育に身を置くものとして、学ぶものが多かった読書になった。

一つには、トットちゃんが、初めて学校を訪れるシーン。

トットちゃんは、とってもうれしそうにいった。

「よかった。じゃ、おねがい。私、この学校に入りたいの」

校長先生は、椅子をトットちゃんにすすめると、ママのほうを向いていった。

「じゃ、僕は、これからトットちゃんと話がありますから、もう、お帰りくださって結構です」

ほんのちょっとの間、トットちゃんは、少し心細い気がしたけど、なんとなく、(この校長先生とならいいや)と思った。ママはいさぎよく先生にいった。

「じゃ、よろしく、お願いします」

そして、ドアを閉めて出ていった。

校長先生は、トットちゃんの前に椅子をひっぱって来て、とても近い位置に、むかい合わせに腰をかけると、こういった。

「さあ、なんでも、先生に話してごらん。話したいこと、全部」(33-34)

そして、トットちゃんは、いろんなことを、一生懸命に話す。そして、話をして、話をして、ついに話すことがなくなってしまう。

どう考えてみても、本当に、話は、もう無くなった。トットちゃんは、(少し悲しい)と思った。トットちゃんが、そう思ったとき、先生が 立ち上がった。そして、トットちゃんの頭に、大きくて暖かい手を置くと 

「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ」 

そういった。……そのとき、トットちゃんは、なんだか、生まれて初めて、本当に好きな人に逢ったような気がした。だって、生まれてから今日まで、こんな長い時間、自分の話を聞いてくれた人は、いなかったんだもの。そして、その長い時間のあいだ、一度だって、あくびをしたり、退屈そうにしないで、トットちゃんが話してるのと同じように、身をのり出して、一生懸命、聞いてくれたんだもの。(36-37)

今の社会に、これほどまでに「人の話を聞く」ことができる隙間は、どこにあるだろうか。 話をすること、話を聞くことは、簡単なようでいて難しいし、ありふれているようで貴重である。こうしたことが「そんなの無理だよ」「余裕なんてない」と聞こえてしまうような、今の社会の隙間のなさというのは、間違いなく、不幸と呼ばれるべき状況なのだと思う。

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