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R80という方法論

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教員アカウントのタイムラインで見かけた教育方法が書籍になっていることを発見した。それは「R80」という方法だ。( 中島博司『R80:自分の考えをパッと80字で書けるようになるメソッド』 飛鳥新社、2023年) RはReflection / Restructure つまり「反省 / 再構築」の意で、80は「80字」以内、ということ。要は学習後のまとめについて、80字以内でまとめるというメソッドだ。 方法論は非常に明快で、学習後のまとめに行なう「振り返り・まとめ」について(1)80字以内でまとめる、(2)2文で書き、文と文の間には接続詞を入れる、というもの。これによって、学習内容をまとめとして整理できるだけでなく、論理的な文章を書く練習にもなり、思考力が高められる、という寸法だ。 そもそもは高校・日本史の教師だった中島博司氏が発明した方法で、校長として、そして民間講師として広めているようだ。 書くことの指導においては、「型」のようなものがあるとむしろ書きやすくなることも多いので、有効な方法と思い、魅力的だと感じる。ただ、根本的な設計思想として、「正解」が見えやすい「受験学力」の向上を強く意識している点には注意が必要だろう。また、「80字」という字数設定のおかげで苦手な者にとっても書き始めやすく、ポイントを絞らなければならないために情報を整理してまとめる力の育成には寄与しうるものの、同時にそれは理解の単純化をもたらしうることにも留意する必要はあろう。歴史の因果関係などについても、単純化のきらいがあるために、実践者の工夫が必要であろうし、私などが公民科の中で取り組むような、自分の中の「もやもや」や「逡巡」「悩み」などを発露させるようなライティング課題の設定とは、相性が悪いだろう。 一方で、誰にでも取り入れやすそうな、魅力的な実践であることも事実だ。私もどこかで取り入れてみようか。なお、実践に関する情報は、茨城県茨城県立並木中等教育学校のホームページ 以下よりアクセス可能 である。

ChatGPTの衝撃

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昨年(2023年)に教育現場の話題をかっさらったものの一つが、生成AI、ChatGPTだろう。 簡単なユーザー登録で利用が可能で、プログラミングの知識を要求しないAI。日本語でも使用できて、日常言語で指示を与えることができて、仕事をしてくれる。この登場で、校務ではどう使えるだろうか、というアイディアも、授業でどう使おうか、というアイディアも、宿題で、課題で、勉強で、という議論がたくさん出た。 私自身も現場で色々なシーンで使っていたが、議論の中でちょっと問題も感じていた。校務系で提案されていたアイディアの中には、個人情報の観点から問題を感じる例もあったし、生徒が活用する場面では、基本的な論点として、保護者同意などの基本的な手続きがちゃんとなされているべきだ、という指摘もあった。宿題や課題を丸投げしてしまうことも問題とかね。 一方で、使ってみた人にとっては、「なんかうまくいかない」という思いを抱いた人も多いのだろう。そのため、書籍でも雑誌でもWEB講座でも、ChatGPTをどう活かすか、という情報が大量に流されている。それで役に立つことも多いし、うまく使えるようになれれば良いけれども、私が中でも勉強になったのは、 スティーヴン・ウルフラム『ChatGPTの頭の中』(ハヤカワ新書、2023年) 。本書の特徴は、筆者自身が自動応答システムの開発に携わる専門家であること。本書はOpen AIのCEOサム・アルトマンも推薦したそうだが、専門家の立場から、ChatGPTの仕組みと技術について根本的なところから説明している。 使い方を習得するためには、ハウトゥーだけではなくて、仕組みをしっかり理解すること。これはどんな場面でも活用できる視点かもしれない。

AIと人間の違い

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 毎年読んでいる「最新教育動向」。 教育の未来を研究する会『最新教育動向 2024』(明治図書、2024年) の冒頭は、AIやDXといったデジタルに係るテーマに紙幅が割かれている。 教育現場ではGIGAスクール構想が、不慮のコロナ禍に出遭って加速するという形でデジタル化が進んだけれども、できている学校 / そうではない学校の差が開いている。同時に、すべてはデジタルに置き換わるわけではなくて、人間が果たすべき役割、人間が人間たる価値についても、再定義を迫られつつ、それは失われてはいない。 AIが人間のすべてを代替するわけではない、しかし代替されるために「生き残れない」人間もいる――というような「生存戦略」みたいな言説には、なんとなく乗れない。生き残るとか残れないとかの前に、人間は生きているし、生きていくし、生きている意味があるのだ。そういう根本的なことは揺らがしてはいけないと思う。 だから、少し前に流行った 新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年) のような議論も、注意が必要と思う。だいたい、学習者が意外と「読めていない」のではないか、という感覚は教育現場にいればそう珍しくない気づきだし、そうだから「生き残れない」という議論でもないように思う。 じゃあ、必要な議論とは? 直観的には、人間ができる文化的な「享受」という側面、そして人間が引き受ける「倫理」がカギになってくるように思っているが、この話は今後改めて。