わかりあうということ(1)
大学時代、三島由紀夫のエッセイをよく読んでいた。当時はわたしも「強い男性」になるべきなのではないか、という規範に自我を揺らがされている時期だった。
三島由紀夫はいう。
- どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。(三島由紀夫『不道徳教育講座』角川文庫、改版1999年、201頁。)
とはいっても、わたしたちは、自分のそのままの思いを、そのままの自分そのものを、丸ごと理解されたいと願う。丸ごと愛してほしいと願う。それが、「甘い考えで、人生をなめてかかった考え」だとしても。
わかってほしいと思っているけれど、どうがんばっても、わたしたちは、他人にまるごとわかってもらうことはできない。そのままの感情というものは、絶対に認識できないものであるばかりか、「不気味で、愛することの決してできない」グロテスクなものなのだ。
じゃあ、どうするか。
わたしたちは、「わかってもらう」ことをあきらめたらよいだろうか。わたしの感情とあなたの感情は違う。それだけだ。わかり合うもクソもない。
こんな結論を飲めばいいだろうか。
わたしは、いやだ。
いやなのだ。
たぶんわたしが生きていることは、この「わかりたい」という思いを、どのようにすれば実現させることができるのか、果たして本当に「わかりあう」ことなどできるのか、諦めるべきなのか、そうした問いと格闘するためにささげられている。その過程で出会ったのが、「エンパシー」という概念だった。(続)

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