マイクロアグレッションとどう向き合うか(質問箱の質問に答える)


質問
 先生は、明らかな差別言動ではなく、マイクロアグレッションに遭遇したとき、どんな気持ちになりますか。そして、気持ちの落ち着き方というか、対処の仕方みたいなものがあればお聞きしたいです。

回答

  マイクロアグレッションとは、無意識な偏見や思い込みが言外のメッセージとして表出され、マイノリティー属性を持つ者を傷つけてしまう言動のことです。当事者にはその攻撃の意図がないことも多いものです。

 NHK解説室「マイクロアグレッションを考える」では、「女の子なんだから、就活そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」「ハーフですか? 何人ですか?」を例にその問題を考えています。この二つの事例は、女性に対して、あるいは「日本人には見えない人」に対して、マジョリティーから行使される権力関係のもとで成立するもので、マイノリティーを尊重していないことに問題があります。

 質問をくださった方は、奈辺自身がトランスヴェスタイトというマイノリティ属性を有していること、また差別意識に係る実践を行なっていることも踏まえ、こうしたことに対する「対処」を聞いてくださってるものと思います。ここで私が考える「対処」は、社会レベルのものと個人レベルのものとの2つあります。

 第1に、社会レベルから。私はマイクロアグレッションのように、当人に自覚がないとか、直接的な攻撃ではないという点では、その言動は免罪されないと思います。それが問題なのは誰かを傷つけていることにあるのであって、意図とか直接性とかは目下、問題ではありません。

 ただ、ハラスメントの議論でもそうなのですが、以上のように「傷つけること自体が問題だ」といういえば、以下のような典型的反応があります。「傷ついたといえば何でも問題になってしまう」「そんなことを言われるともう発言できない」「誰も傷つかないことを目指して表現が委縮する」「誰もが傷つかないようにする行き過ぎた正義が言論封殺してる」

 何を言ってるんでしょうかね。そもそも言論の自由下において、あらゆる言論はあらゆる批判に開かれているべきです。言論の自由が十分に保障されているからこそ、「女の子なんだから」と言うことができる(A)し、それに対して批判することができる(A’)。言論に対する批判がなされると、条件反射のように「言論弾圧だ」とか言う人いますけど、不思議なんです。あらゆる言論はあらゆる批判に開かれているのですから、(A’)に対する疑義があるなら批判の形で展開すればよいだけですよね。(A’)は以下の理由で適切ではない、云々、のように。言論弾圧だとか封殺だとか強い言葉を使って批判の往還的やり取りを終えてしまうのではなしに。

 だから、マイクロアグレッションについても、大目に見ようとか、気にしすぎだとかという問題ではなく、問題視されうることはどんどん批判されていくべきです。批判が行なわれることで、人は問題に気付き、立ち止まることができる。自分の言動が誰かを傷つけたかもしれない、自分の何気ない言葉が誰かを傷つけるかもしれない。そうした事実や可能性に気付き、立ち止まること、それにつなげるという意味で、批判はとても重要です

 むろん、あらゆる批判が等価値であるとか、批判が起きたらすべてそれに従わなければならないわけでもない。繰り返し言うように、あらゆる言論は批判に開かれているので、批判に対して批判することは可能だし、そうあるべきです。しかし、ある言動が批判されることは、その言論の意味を立ち止まって考えることを促すうえで、とても重要です。マイクロアグレッションは、積極的に批判の俎上に載せられるべきです。このように、あらゆる言論が批判の俎上に載せられて、議論の対象としうるという点は、健全な市民社会の条件だと思います。

 そこで、第二の個人レベル。以上のように批判することが大事なので、自分が当事者になったら批判をすべきと言えます。「女の子なんだから、就活そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」と言われたら、「その言い方はよくない / 不適切だ」でも「それは間違っている」でも「お前にそう言われる筋合いはない」でも何でもいいから批判の意図を示すべきです。そのことはとても重要なことです。

 しかし一方で、私が見逃したくないのは、質問者自身が「気持ちの落ち着き方」と聞いていることです。差別的言動の中にいることは、自らが傷つくことももちろん、疲弊したり徒労感を覚えたり、悲しみやむなしさを感じたりする体験でもあります。だからこそ、マイクロアグレッションに遭遇したとき、批判すべきなのに批判する体力がない、ということもまま起きるわけです。私はそれはそれで仕方ないことだと思います。

 自分がつらくて、どうしようもないときは自分のケアをすべきです。自分を守ること、それはとても重要なことです。だから「批判されるべきである。しかし今の私には批判することができない。今の私は〇〇をして自分を楽しむのだ」と思っておくこと、それが自分を守りながらもマイクロアグレッションに対して私が取る対処です。

 そもそも差別的言動に対して、被差別者(だけ)がそれを批判すべき役割を担わされること自体がおかしい。私も、異性装者に対する差別的誤解について遭遇したときは、しっかりと批判することに努めますが、事実私自身も傷つくわけで、負の感情の渦中に埋められます。それでも批判しなければその言動を認めることにもなりそうで……という悩みに苛まれる。

 ここで第一の社会レベルに戻ってきます。マイクロアグレッションに対して批判すべきなのは、「直接関係ない人」なのではないでしょうか。「ハーフですか? 何人ですか?」という無遠慮な発言については、そういわれた人(だけ)が抗議すべきなのではなくて、その周りで、自らの民族的・国籍的アイデンティティに実存的悩みのない「直接関係ない人」が批判の声を上げるべきです。反差別の行動を、当事者だけに取らせることは間違っています。

 以上から、結論をまとめます。

  1. マイクロアグレッションに対する反応としてもっとも重要なのは、批判すること。言論が批判に開かれていることは市民社会において重要である。
  2. マイクロアグレッションに遭遇した被差別者も、声を上げて批判することが重要であるが、被差別経験は批判する体力を削りもする。そうしたときは、まずは自分のケアをすることが重要である。
  3. したがって、マイクロアグレッションに対して必要なことは、「直接関係のない人」が批判の声を上げることである。
ご質問いただきありがとうございました。

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