高校社会科教師が学術論文を読む 004
※ 今回取り上げる論文について
2日に取り上げている『思想』掲載の論文はオープンアクセスではありません。
5日に取り上げている論文情報は、たつや氏(Twitter: @edu_tatsu)のご紹介で知ることができました。ありがとうございました。
1月2日(月)
那須敬「革命期イングランドのオルガン破壊」『思想』1111号、80–101頁、2016年。
「音と声の歴史学」という特集の中の一本で、イングランドの革命期における「オルガン破壊」の意義を捉えようとするものです。イングランド内戦は周知の通りキリスト教における宗派間の争いの体をもっているわけですが、その中で教会のオルガンを破壊するという動きがありました(なお、オルガンを破壊する動きはフランス革命にもあったと知られています)。
その意義を、先行研究ではピューリタニズムの禁欲主義に還元するきらいがありましたが、本稿は政治・社会の諸相をたどりながら、ピューリタニズムの「反音楽」ではなく、特権としての聖歌隊・オルガンという教会音楽の在り方と、詩篇歌をそれぞれが謡う教会音楽の在り方との対立を明らかにします。「心性」の研究のひとつとして、現代歴史学の妙味を味わえる意義深い論文です。
1月3日(火)
髙橋香苗「女性誌のフォーマル・ファッション記事からみる母親の規範:ギャルママのファッションは逸脱なのか」『家族研究年報』44号、 43–60頁、2019年。
本論文は、30代既婚女性のファッション誌、中でも入学式、卒業式といった母親にとってフォーマルな場面での服装規範言説を検討するものです。
検討された4誌は、言説の特徴から、比較的穏当といえる3誌とギャル系といえる1誌に分類されます。そして、子細に検討していくと、3誌は「言説において個性を強調しているが、実態としては規範的。また服装が規範的にとどまり、小物で個性を出そうとする」系傾向にあるのに対し、ギャル系誌は「言説において規範を強調しているが、実態としては個性的。また服装が個性的である一方で、小物で規範性を意識するよう呼びかけれらている」という特徴があることが解明されます。さらに、ギャル誌では人間関係や(ギャルではない一般的な)ママとのかかわりといった部分についても、規範意識を喚起する傾向にあることが分析されています。
このことは、自由や個性をめぐって、言っていることとやっていることが結果として違ってきてしまう、そうしたねじれがみられることを明らかにしており、非常に面白い論点をあぶりだしているように思います。
1月4日(水)
渡辺哲男「わたしが与える『自由』は『不自由』? :特別支援学校における句会の授業を手がかりとして」『立教大学教育学科研究年報』57号、73–89頁、2014年。
3日続いて、自由について。本稿は、大学教員による特別支援学校での「自由に俳句を作ろう」という実践の失敗をもとに、教場における「自由」を考えるものです。
筆者の失敗は、次のようなことです。
(1)「自由に表現してよい」と言われてかけず戸惑っていた生徒に対し、「なんでもいい」「適当でいい」「何も考えなくていい」などいった筆者としては自由に動けるだろうとかけたことばがけが、かえって生徒を苦しめてしまったこと。
(2)「自由に表現してよい」という課題で、「自由で奇想天外な発想」を期待するあまり、かなり早く、そして俳句としては「上手」で「穏当」なことばを出した生徒に対し「もっと面白いことを考えてもいいんだよ」といったことで、授業への気持ちを折ってしまったこと。
筆者はこの失敗をリフレクションしつつ、特別支援学校だから起きたことではなく、教育が抱える根源的な問題が浮き彫りになる場が特別支援の現場であり、そのことを意識した特別支援教育理解が必要であるとの提言をしています。
1月5日(木)
中澤静男「構成主義にもとづく学習理論への転換:小学校社会科における授業改革」『 教育実践総合センター研究紀要』13号、13–22頁、2004年。
少し前、Twitterの地歴公民(社会科)教師の界隈で、授業の在り方をめぐって論争の体をなしたことがありました。そこでの論点が「ALか講義型か」のような授業の外形を巡る単純な二項対立に矮小化されてしまったきらいはありますが、重要だった論点は(そして論争下で「AL派」を目された人々は徹頭徹尾その話をしていたはず)、学習の在り方を考える視点として、教授主義(本稿では「客観主義」が「構成主義」に対置されている)をとるのか、構成主義をとるのか、という論点でした。
本稿は、社会科を「子どもが中心になった、地域の社会研究を行う科目」だとする視点に立ち返ることを目的に、ヴィゴツキーの研究を概観する形で学習理論としての構成主義の在り方を探っています。シンプルに言えば構成主義は、「知識が学習者の生活的概念によって個性的に構成される」ことを主張するもので、「絶対的な真理や知識が厳然と存在する」ことを主張する「客観主義」とは対置されています。
1月6日(金)
白水始ほか「学習科学の成立、展開と次の課題:実践を支える学びの科学を模索して」『教育心理学年報』60号、137–154頁、2021年。
それでは「構成主義」に基づく学習活動とはどのような理論において組織化されていくものでしょうか。本稿はその課題を担ってきた「学習科学」の成立史をレビューするもので、教科教育に関わるものにとって必読といってよいくらい重要なものと感じました。
そもそも構成主義と、(客観主義の知識観に裏付けされた)教授主義の違いとは「教えるか否か、断片的な記憶を肯定するか否かといった表面的な学習活動・目標の違いではなく、学習者の認知プロセスをどう見るか――受動的で一様なものと見るか能動的で多様なものと見るか――という根源的な認知観の違いにある」とされます。
また、構成主義の理論に基づく学習はその外形からALだと目されがちですが、「なんでもありなAL」といった交換の批判には「そこでの学習環境は「のびのび自由に学べればよい」というものではなく、学習者が相互作用を通して何をどこまで学び得るかについて、デザインする主体が可能な限り精緻 に予測し、実践で相互作用の生起を保証し、学びの事実やそこから推察できる認知プロセスを予測に照らして評価し、次のデザインへとつなげていく場でなくてはならない」という自覚的な言及から、応えることができるかもしれません。
本稿は展望論文なので、これまでの成果や今後の課題について、コンパクトにまとめられており、もっと学習科学について学ばなければ、という思いを新たにした次第です。現在、教育者(となろうとする者)としてどのような理論をお持ちであるかにかかわらず、思考のトレーニングとして構成主義を学んでみることはきわめて大きな意味があると思います。
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