【エッセイ】古本への書き込み

 「気分変調症の患者は『何も楽しいことがないし、やる気がでない』と述べ、『これから何かやりたいこともないし、生きていても仕方がない』と繰り返し訴えます」。古本屋で買った一冊のこの記述に、あまりインクの出ていない赤いペンで線が引かれていて、その上に書きこみがあった。「ワシじゃん。」

 これは、二〇一七年度秋の新歓での企画「一四〇字小説」でわたしが提出した作品の全文である。サークルにおいて重要なイベントである(らしい)新歓において、一四〇字で小説を書くという企画を行なう旨を、会員から伝えられた。いまいち一四〇字で小説を書くということの意味がわからなかったので(たぶんツイッターでの限度文字数と同じだから、それに関連したものなのだと思う)、とりあえず、その日あったことをただ報告する形にした。だから、これは実話なのである。

 その日は、ブックオフで数冊の本を購入した。ブックオフなので、本来ならば「古本屋」とは呼ばずに、「新古書店」とでも呼ぶべきだろうが、まずはそれはどうでもよい。何冊か関心がある本を選んで購入し、その中に件の本が含まれていた。

 岩波明『どこからが心の病ですか?』(ちくまプリマー新書)がその本である。岩波明は精神科医で、最近では文春新書から出した『発達障害』がベストセラーになっている。かねてからこうした話題には関心があったことと、社会に出る前に見識を深めておかねばならないと思ったことから、選んだのだった。

 今考えれば、かごに入れてレジに向かう前に、ページをぱらぱらとめくって本文の状態を確認するべきではあった。タイトルのキャッチーさと、ちくまプリマー新書がとても読みやすくて面白い本を数多く出しているレーベルであるという信頼感から、確認の作業を怠ってしまった。それゆえに、わたしはかつての持ち主の「痕跡」がしっかり書きこまれたその一冊をつかまされることになった。

 しかし、この本、なかなか面白いのである。彼・彼女が(やや面倒なのでこれ以降、この本へ書き込みをした元読者のことを「ワシ」と書くことにしよう)かなり熱心に読んだのであろうことが伝わってくるのである。まず、「はじめに」で本文が始まる最初のページから全体の半分以上に赤線が引かれている。例によってそのインクはあまり出ていない。

 正常と異常との境界線に、世界の共通ルールがないという記述のあとで「(正常と異常の境界は)人為的に定められたものです。身体疾患においては、検査値などを指標とし、正常と異常とがある値を境にして分けられていることが多いのです」(7頁)に赤線が引かれ、「この検査値も人為的、恣意的なものですしネ」と書いてある。「ですしネ」の「ネ」の使い方に垣間見える古臭さを見る限り、「ワシ」はやや年配の方なのかもしれない。

 件の「ワシじゃん。」という書きこみが見えるのは、三一ページである。そこに至るまでも、かなりの多くの箇所に赤線が引かれている。その内容は、先に見たように文章を抜き出すように引かれているものもあれば、「魔術的思考(マジカル・スィンキング)」(一七頁)や「世界没落体験」(一九頁)など、単語レベルで興味を惹かれたらしい箇所に線が引かれているものもある。

「ワシ」はこの本でかなり熱心に勉強をしたらしい。しかしそれは、筆者である岩波の所説を無批判に受け取ることとは異なる。

 その傾向が顕著に表れているのが、不安障害を扱った第五章である。岩波はここで、精神医学の臨床の立場から、フロイトの精神分析の手法を「医学的に実証されたものではな」く、「有効性が見出されないばかりか、しばしば精神症状を慢性化させたり悪化させたりする」(八五頁)ものだとして批判する。「ワシ」が注意を払うのは、同じページに続く以下の記述である。

「つまり、精神分析による神経症などに関する理論は、過去の遺物であるということです。精神分析は単なる仮説にすぎず、フロイトの概念は医学的に実証されていないのです」。「ワシ」はここに赤線を引いて、「薬もしっかりとしたデータはありませんよネ。」と書きこみを入れている。

 さらに、次のページでは岩波はこう記している。「精神分析の理論によれば、不安神経症は、心理的な葛藤によって生じるものと考えられていました。しかし実際には、不安神経症の発作は、コーヒー、飲酒といった物質によってしばしば誘発されるものです。つまりこの発作の症状は、心理レベルの話ではなく、身体の生理的な反応に過ぎないのです」(八十七頁)。「ワシ」は、最終分の「つまりこの発作の症状は心理レベルの話ではなく、身体の性的な反応に過ぎないのです」にチェックを入れたうえで、「何と浅い考え方でしょう。」と批判を隠さない。

 さらに続くページでは、筆者の岩波はパニック障害について、その要因について「パニック障害は、自然に生じることもありますが、さまざまなストレスによって引き起こされるケースもみられます。特定の物質や状態が誘発することもあります。いったんパニック障害が生じると、誘発物質や環境的な要因によって発作が起こりやすくなります」(八十八頁)と説明している。「ワシ」はその説明の中でも、「自然に生じる」という箇所に、やや力を込めて赤線を引いて、「はあ? 原因がわからないだけでしょう?」と苛立ちをも見せているのである。

 もう一冊、エピソードを記そう。デンマークの作家アンデルセンの童話が読みたいなとふと思ったことがあった。新潮文庫に童話集シリーズが三巻本で発刊されている。古本で買えば安く買えるので、インターネットで古本を注文し、その到着を待った。

 数日たてば届いた。『童話集(1)』の表題が『人魚姫』であり、その本の状態はかなり綺麗であった。しかし、『おやゆび姫』を表題とした第二巻の状態に、わたしは度肝を抜かれた。

 ボロボロであったということではない。扉のところに、黒いペンで、私信がしたためられていたのである。文面から見て若い女性から、その友人の若い女性に向けて。十年以上も前の日付が末尾に記されていた。

 内容がおおよそこのようなものであった。アンタ、看護師になるんだってね。アンタが看護師なんてびっくり。しっかり仕事できるの  ……この本は童話集。だけど大人も楽しめるって感じ。私は「○○」という作品がすき。

 先のエピソードに比して、かなり具体的でない書き方をしているのは、アンデルセン童話集の状態を見て、なんだこれはと訝しく思ったわたしは、残念に思いつつも、処分してしまったのである。

 いまとなれば惜しいことをしたと思う。しかし、その一方で、手紙がしたためられた本など、わたしにとっては何の価値も持たないのだ。

 そう、なんの価値も持たないのである。しかしそれは、当人にとっては重大な意味を持ったものであるはずである。「ワシ」が熱心に書きこみをしながら読んだ本は、その本の扱っている内容と、「ワシ」の熱心な読み方から見て、かなり逼迫した感情の中で読んだのではなかったか。あるいは、アンデルセンの童話に託された私信は、かつて仲よくしてきた友人からの心意気を感じるものではなかったか。

 しかしそれは、めぐりめぐってわたしの手元に来てしまったのである。誰かにとって重要な意味を持っていたはずのものが、わたしの手元にあると、すぐに処分してしまったことから分かる通り、意味のないものになりおおせてしまう。この救いがたい落差に、わたしはただ単純に驚きを隠せない。

 そしてもう一つの驚きは、その本たちが元の持ち主の手を離れたという、その事実である。熱心に書きこみをした書物を手放したのは、いかなる成り行きによるものだったのだろうか。友人からの手紙が書きこまれた、世界で一冊しかない友情の証たる童話集を古本屋へと渡してしまうことの契機となったのは、何だったのだろうか。わたしの知らないところで、誰かの人生があり、その人生の中で大切な本があり、その大切な本を手放す契機がある――特別ではないはずの、ただあたりまえのことに、わたしはなぜだか驚いてしまうのだ。

 「ワシ」はどんな人だったろう。なぜ『どこからが心の病ですか?』を手に取ったのだろう。「ワシ」自身がそうした自覚を有することになる出来事があったのだろうか。あるいは、「ワシ」の周りの大切な人が、心配になったのだろうか。赤線を引いて読んだ本は、何度読み返しただろうか。こんなに熱心に書きこみした本を、手放したのはなぜだろうか。引っ越しか、あるいは蔵書整理か。

 『おやゆび姫』の扉に、夢を叶えた友人に対する手紙を記した女性は、どんな人だったろうか。彼女は何をしていたのだろうか。彼女も看護師なのか、違うのか。あるいは、彼女自身は看護師になろうとして挫折したのかもしれない。それゆえに、看護師になった友人に対して、少し屈託した思いを童話集に乗せたのかもしれない。

 『おやゆび姫』をプレゼントされた女性はどんな人だったのだろうか。友人からの想いがつまったプレゼントにどんな思いを感じたろうか。彼女らしいな、と笑ったろうか。ちょっと驚いたろうか。そして、彼女は、看護師の仕事を勤め上げられただろうか。いまも看護師として、ベテランの域に入って信頼の厚いひとになっているだろうか。あるいは、その激務に挫折してしまっただろうか。

 わたしの想像は、どんどん広がっていく。そして、脳内に、次々と問いを創造してゆく。しかしその答えを見つけ出すことは、不可能である。わたしにわかることは、ここで出てきた人々が、確かに生きていたのだということでしかない。そしてその人生は、古本に残した痕跡によって、ふとした拍子にわたしとつながってしまうのだ。

 そのつながりに、何の必然性もない。運命でも何でもない。そこには、説明され得る意味はない。しかし、そこには、ひとが生きていたというその価値だけは、刻印されているような気がしている。

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本エッセイは奈辺真理が大学時代に文芸サークルにおいて発表したものです。


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