(寸評)教育科学研究会『教育』2022年2月号「高校教育における公共性を考える」
教育科学研究会が発行する月刊誌『教育』の2022年2月号の特集は「高校教育における公共性を考える」。6本の論考を掲載しています。
矢継ぎ早に展開される高校教育改革のなかで、「IT企業と教育産業が強力な食い込みを図」るなか、高校教育の根本を問い直す機会が奪われているという問題意識が本特集にあります。そこで、「高校教育における公共性」という観点を設定し、高校のあり方を問い直すことが、本特集の目標に位置づけられています。
1本目の児美川孝一郎「高校教育はどこに向かうのか」は、端的に言えば現在進む教育改革への悲観論です。児美川によれば、学習指導要領の告示から現在までにはさまざまな改革案が高校をめぐって出され、その「異様な」状況下でカリキュラムの過剰が進んでいます(6頁)。
また、新しい学習指導要領に基づく教育改革においては、生徒の内面に対する統制が強められるとともに、教師に対する統制も強められます(7頁)。そして、society5.0を標語とする教育改革は高校教育に破壊的な影響をもたらしうるもので(8-10頁)、以上の改革下で軽視される高校教育の公共的な役割を守るためには、「ルールをすり抜け、脱法し、時には『良心的拒否』を貫くことで、それを『無下』していく」(11頁)教師のあり方が提案されます。
児美川論考は、教育改革への悲観に傾いた書き方がされており、それはディストピアを描くという形で結実しています。むろん、ここに書かれたことがすべてそのようになるわけではありません。現場として、どうすれば教育改革を良い形で着地されることができるのか、その実践を考える際の素材となる、悲観論です。
2本目の嵯峨山聖「コロナ下で紡がれた連帯と希望」は、大坂の私立高校での実践記録です。「弱い立場、指導困難な生徒がかなり多い」クラスに突然訪れたコロナ禍により、クラスの取組を振り返ったり、見通しを持ったりするのが非常に難しくなりました(13頁)。しかしそこでも、「蟹工船」を読み合い、劇を制作し、文化祭で披露するという、その歩みの中に「人間の連帯の尊さと学校の存在価値」(20頁)を示しているようなそんな感動的な実践録です。
3本目の宮田雅己「生徒を人として遇し続けること」は、高校が生徒を「階層分け」する時期であることを認め、生徒の「階層文化」を尊重した上で、授業作りやHR作りの工夫で生徒と教師とが人間らしく出会える場面の設定を提案する論考です。「目の前の生徒たちがしあわせに生きられるように、いまできる手伝いをすること」を教育目標とする宮田の提案には重要な示唆があります。
ただ、「階層文化」はやや注意が必要な語であると感じます。22頁では、高校は学力水準で選ばれ、学力水準は家庭の経済力や文化資源と比例すると指摘されます。したがって、高校は似通った経済力と文化を持つ生徒の集合体となるというのが宮田の視座であり、そこに表れるのが「階層文化」です。しかし、「偏差値」やそれに影響する家庭の経済・文化資産によって生徒集団が「階層化」される、というのは、多様化する高校生の特徴をとらえる視座としては、やや単純化が過ぎるように思います。もう少し丁寧な検討が必要な概念と感じます。
後半3本はさまざまな分野での高校の実践と論考です。南部拓未「探究・課題研究をどう学ぶ?」は、やや軽視されがちな地学分野に関連して、野外巡検を探究活動に積極的に取り入れようとする提案です。また、梅原利夫「高校で『公共』を学ぶ意義」は、高校公民科の「公共」に引きつけて、高校で学ばれるべき公共性とはどのようなものかを探ります。最後に、渡部翔子「小さな声に応答する学校へ」は、トランスジェンダーのMの歩みを丁寧に描き、職員室のリアルな反応も感じられる記録です。
なお、第二特集は「小学校英語教育のゆくえ」です。
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